昭和41年07月28日 朝の御理解



  (途中一部切れ)
 「信心をする者は何事にも真心になれよ」と、「何事にも真心になれよ」と。どの様な場合でも真心になれよと言う事も言えると思うんですね、何事にも、事柄というだけのことでなくて、いつでもどこででも、真心になっておれよと言う事だと思うんですね。私は時々その不思議に思う事があるんです。この人のおかげ頂き為されん筈はないのにと思う事。椛目でもまぁ言うならば立ち振る舞いから、言われる事から、これならば本当に皆んなが付いて来ん筈はないのに、又おかげの頂かれん筈はないのにと。
 ところがその、それは私の目の前だけであり、椛目だけである、と言う様な事を聞いたり知ったり致します時に、はぁ成程それじゃあおかげ受けられん筈だと、私が思う事があるんです。いんやこの人は二重人格だろうかと。いやそう言う訳でもない、ただ椛目でおかげを頂いておる時には、やはり真心になっておられるだけの事である、ね。言うなれば心の中に喜びの心があるのである。ですから、そこに信心の雰囲気というものがその人の周囲にあるのである。
 ここ2、3日の間に私はそう言う様な事を、ここの信者の方達をそれぞれこの指摘して、また誰々さんはと指名して、そういうことをきたしておったり、又は私が目撃したりしたことが度重なるんですね。この人こげんどげんおかげ頂かんとばいなと私が思うようなことに出あったり、ね。先日もある人に、ご信心を頂いておる(?)で、(?)さんのご兄弟というのがお参りしてみえてきた。もうあれ達夫婦、あの人達夫婦が本当に椛目で、しかも大事な役まで承っておるということでございますが。
 あれで金光様の御信心でしょうかと、もうそれは言う事する事、実に話を聞けば聞くほどやっぱえげつないですね。それで私申しました。そうですよ、もう金光様の御信心頂いとるからちゅって皆んなが皆、立派と言う訳じゃないですけれども、んなら私そのご兄弟もよく知っておるんですけども、あなた方のように、今も時々しか参ってみえないけれども、立派なその人格をもっておられる方もあるけれど、あなたのご兄弟のように、信心あれだけ日参り、夜参りされてておられても、あの位なんだから。
 もしあれに信心がなかったら、ほんにどげな弟じゃろうかどげな妹じゃろうかと、あなた達思うて下さいと言うて、そげん言やぁそうですねちゅって、まぁ言われる訳なんです、ね。先生、あなたは一体ならどげなこつば教えよんなさるとですかと、まぁ言わんばっかりなんです。また、あるご信者の近所の方です、ね。その人じゃないですよ、別なもう本当にここでは立派な信心を、私もその人をそう信じておりますけれども、近所隣の評判の悪いこと悪いこと、たまがってしまう。
 昨日もある方がここでお届けをされて、その方の信心はないですけど、その方の息子さんがある、現場の方に関係がありましてから行かれた。してお母さん、椛目のあの人はまぁ言うなら、最高幹部と言われるようなメンバーの中にある人だと思うが、あの人の評判の悪かとはどうしたことねちゅって、そのお母さんに言われて、お母さんとしてもどうも言いようがなかった。
 成程これではおかげの受けられんはずだということを私感ずるですね、というてならその方が椛目でばっかりと、私はあながち言えんのですよ。あんた二重人格じゃなかろうとは言えんのですよ、ね。椛目ではです、それだけやはり、有難うなっておられることだけもう事実なんです。また和らぐ心も椛目では持っておられるのです。けれども家に帰られて時間が経つに従ってです、ね、言わば、元の木阿弥というか、自分の本当の生地が出てくるのです。
 んならこれは信者だけのことではありません。これは私でありましてもそうです、ね。御結界座わっちゃるだけ時は、まぁ言うなら立派な先生ばってん。もうあちらに下がらっしゃって、もう子供さんに対してから奥さんに対してから、まぁ何ちゅうろくそうな言い方しよんなさるじゃろうかと、あれじゃ子供さんが付いて来なさらん筈だと。あれじゃ奥さんが付いて来なさらん筈だと言われる様な事が、私にもあるだろうとこう思うのです、あるだろうじゃないあるです、ね。
 「何事にも真心になれよ」と、「何事にも真心になれよ」と、ということは、ね、どこででも真心になれよと、椛目でのお広前ではそれこそ、満面に笑みを称えというでしょうか、そげんわざわざ作った笑みでもなさそうなんです。本当に椛目では親先生おかげ頂きましてという時なんかは、本当にこの調子ならおかげ頂けん筈はないという感じなんです。ところがさぁ家に帰ったら、もう一遍に二重人格であるかのように、人間が変わってしまう。人を軽う見るものも軽う見る、ね。
 私は私共の理想とさして頂かなければならん。理想の人というなら教祖の神様でございましょうけれども、ね。いわゆる天地の親神様からもう掛替えのない氏子としてです、教祖の神様がお認められになられた、ね。同時にやはり家族の奥様やらお子様方からでも、掛替えのない主人であり、お父さんでおありになられた。それは隣近所は言うに及ばず、ね。大体ご養子ですから、田舎ではよそ者として非常に軽視する向きがある。
 村寄りなら村寄りがある時なんかは、とにかくどんなにその村に長くおっても、上の方には座られんと言う様な、まぁ一つのそういう仕組みというですかね。一つのそういうシステムというか、ものが何とうなしにその村にもあるのです。あれはよそ者だと。ところが教祖の神様の場合は自分が周りから、じゃないけれどもです、もう皆から押し立てられてです、皆から押し上げられてから、やはり上に座らせられておられたということでございますから。
 やはり近所隣の上にもかけがえのない、立派な村のほこりとするような、御人物でおありになったということなんです、ね。なら当時の官庁関係においてもそうである、ね、それこそその、行き届かれた御信心ぶりというものは、神様仏様に向かわれた時だけではなくて、もう神様の方を向かれても人間の方を向かれても、どのような時でも場合でも信心でおありになったということ。もう家に帰ったら言葉使いから変わる。ですから恐らく人相も変わっておるだろうとこう思うのです。
 ここではもう本当ににこやかな、本当におかげ頂きましてと、これならば大体家当りでもこっとりとでもいわん、大きな声でん出す事は要らん筈じゃけれどもそうではない。それは私掛替えのないと言う事を申しましたけれども、子供から言やあ例えばどげな馬鹿親でもです、掛替えのない親に違いないのだけれども、果たして本当に家の親程立派な親はないと、子供の尊敬を集めれれるかという。家の主人はそら立派な人だと。
 私共がですね、第一家内から軽視される、家内からどうした人じゃろうかとこう言われる。主人から子供から、成程これではおかげが受けられないと私は思うのです、ね。椛目で美しい人ならば、ね、家庭でも美しい人でなからなければならん。
  (テープ途中切れ)
 においてもしかりである、社会人としても美しい人でなからなければならない。それがほんなら皆さんが二重人格であるとか三重人格であるというのではなくてです、んなら椛目では確かに、それなりに有難い雰囲気とか、有り難いものにふるまわれたり、又はそれに精進しておられるからではなかろうかと。椛目では赤面弁慶になっていう人っちゃ、先ず先ずないですもんね。椛目で汚いことどん言う人はないですもんね。ですから私はそこだけを見とるもんですから。
 この人がおかげ受けられん筈はないのに、とこう思うのですけれども受けられん。成程なるほどこう言う事ではおかげは受けられまいと私が、まぁここ2、3日特に思ったわけでございます。神様からもよい氏子であるならばです、ね、やはり教会でもよい信者でなからなければならない。家庭でも良い子であり良いお母さんであり、又は良いお父さんでなからなければならない。隣近所の付き合いの上においても、あそこ一家は信心しござるけん、何とうなしに違うですのう。
 と言う様なものがなからなければならんのに、あの人どんが信心しよってばってんですねえ、ちゅうごたるふうなことではですね、成程おかげは受けられんて。そしてから言うんです。私共信心さして貰いよっておかげ頂かなければ、隣近所の手前もある。そのためにでもおかげを頂かして下さいって、まるきり神様をその、強制脅迫するように言うごとある。私達がおかげ頂かなければ近所の者は付いちゃあ来ん。おかげ頂かなんじゃない、あなた方が変わらなければ近所の者には付いちゃあ来んとです、ね。
 肉親の兄弟からですらです、私にそういう信心があるくらいなのですから。押して知るべしです、ね。みすみす自分の主人から家内から言われるくらいですから、押して知るべしです、ね。「信心する者は何事にも真心になれよ」と、ね。それは信心する者はどのような場合でも、真心になれよということでもあると思うのです、ね。それはなら私がここでこうして、紋付袴を付けさして頂いておるから、家庭に下がっても、やはり紋付袴を着けておかなければならんという意味じゃないです、ね。
 内容なんです、ね。私家内から子供から本当にご信者さんから、例えば信用を受けておるならばその信用と同じような信用が、家内からも子供達からもなされれる私になった時に、私は椛目の本当のごひれいがあると私は思う。皆さん、一人一人にここんところをです、おかげの受けられん筈だというものがです、この辺にあるということ。昨日の朝も御理解に頂きますように、ね、神様に縋るより他にはないと。ということはそのまま、ね、私が改まるより他にはないということだと、ね。
 ですからその改まりの焦点にです、お広前おる時も、家庭にある時にも、職場にある時にも、ね、隣近所の付き合いの上においても、ね、椛目のお広前でおる時の、そういうあり方にならして頂かなければならん、それこそいつでもどこでも、どのような事柄にでも、信心にならせて頂かなければならんということに、第一私は改まらせて頂かなければならんのじゃなかろうかと思う、ね。
 いかにも自分は信心になっておるようでございますけれども、ね。そこんところをもう一遍、第三者の目というか、見方というか、私はもう出来るだけ自分のことを指摘して言えれるような場合、私のことを本当に言うて下された人達方達の前に、私はもう折が有ったら、私はどこばいっちょ改まったならよかかの。私はどこをこげなことじゃいかんと思うてござったら、忌憚なしに言うてくれんのと。
 例えばその言うてもらえれるよい雰囲気になる時に私は必ず聞きます。そらもう子供達にでも家内んでも、ね、ご信者さんにでも、ね。それでんなら全部が全部、分かる訳じゃないけれどもです、結局自分の周囲にあるところの鏡なんだ。子供が私の言う事を聞いてくれんならです、ね、もうその子供は私の、私の尊敬というか、私が尊敬されていなんだということを、やはり感じるより他にないのです。
 昨日でございました、私ちょっとお風呂入っとる時でした。もうちょうど夕立があって、雷さんが鳴っとりました時でした。大きな音がしたんです。何の音じゃろうかと思うたところが、車がそこの丁度下駄箱の裏にぶつかってるんですよ。居眠り運転だったらしんですよね、どうも。ほんでその、ぶつかったその反動でですね、おおと斜めにそこ行ったんです、丁度あそこへあの旗竿が横にこうしてございますでしょう。だからあの旗竿を乗り越えて川の中に飛び込んだ。
 ですからこう高うなっとる所に、旗ざおがこうあるもんですから、向こうのあの高くなっておるあそこを全然それてないです。勿論ここが下駄箱の後ろは廊下の方へこんな出てきておったそうです。それを子供達、私はその時見ませんでしたけども、まぁ向こうさ押しやってそれでもまだ(?)に出てますけれど、ほんにあれが田中さん方家じゃなかろう、田中さんの家ならどげんなるじゃろうかと私思いました。
 もしずっと手前のあの、玄関のごたっとが玄関に飛び込んだっち私は思いました。こがんも頑丈にしてあるか、らあれが向こうの方へかみ合ったわけなんですね。後はその、途端にハンドルをこうきったと言うんですよ。それから斜めに、この駐車場を斜めに横切って向こうの田んぼに落ち込んだんです。もうそれこそ、ちょっとの間に百何十人集まっとる。もういっぱい人が集まりました。
 大変な事故が起こっておるように見えたわけです。ところがもう実は本人、もうか擦り傷もしてありませんでしたしね、それからちょうどまたもう、これだけ頻繁に通っておる自動車がですね、来ておる時でもこうなってごらんなさい、それこそ大変なことですよ。考えてみると身の毛のよだつごとある。私そのことすぐ神様にお届けさして貰いました。そしたら頂きますことが、今の玄関に入れてございますでしょう、花が。あの細すすきと鬼百合がこう入れてございます。あれをすぐ頂きます。
 改めて私は神様にお礼申さして頂いたんですけどもね、どういう意味と思うですか。ほんなことここにはいっちょん気が付かなかった、ね。つい最近椛目ではもう本当にあの秋永先生のあの事故以来、ね、最後に久富繁雄さん所の国男さんの、あの事故といいです、昨日一昨日、退院のおかげを頂いてから、出て参りましてから、国男さんが一番口に言うとがです、もう本当にどんなに考えても、助かっておるということが不思議でございますと、いうことが一番口でした、ね。
 椛目の、言わば神様の力とでも申しましょうか、言うならば私の祈りの圏内とでも申しましょうか、ね、あの鬼百合というのは、私は言わば花の力とこう頂きました、ね。鬼は強いもの、力の強いもの、花は花、信心の花。喜びの花、ね。あのほそすすきというのはいつも御理解に頂きますように、ね、幽霊の正体みたりというあの怖いことという意味なんです、ね。
 本当にもうどの一字をとってもこれは、国男さん達の場合もそうですたい。ですからもうどれをひとつとっても、本当に驚くようなびっくりするような恐ろしいようなです、ことになりかねないところをです、もう本当に紙一重と言う様な所で、皆がおかげを頂いておるということ。しかも一回二回じゃなかろうがと。最後に椛目の力を見せたのぞということであった、ね。
 椛目の神様の力を見せたのぞと、御造営なんかも、椛目の神様の力がああいう働きになっておるのです、ね。例えて言うならばです、もう本当にもう死んでしまわなければならないような、その氏子に対するところの大きな運命というか、そういう災難をかかってきておるのをです、神様、椛目に御縁を頂いておるおかげでです、ね。これが椛目の金光様の横っ腹であったおかげでです、ね。
 皆が氏子同様のおかげを頂いておると言う事、ね。私がお知らせを頂きますように、その鬼百合とほそすすきのです、そういうものだと、ね、椛目の力だと言う事。椛目の神様の力なのだと。それを氏子はただおかげを頂い、たおかげを頂いただけでは済まんという事をです、私は教えて下さっておるのだと、いま気付かせて頂きました、ね。信心のない者にはです、ほうふがよかったので済むかもしれませんけれども、大体なら信心を頂いておっても分からんのですけれども。
 神様に改めて頂いてみて、成程椛目の神様の力というか、働きの言わば驚くばかりの、恐ろしいまでの働きがあると、いうことを感じんわけには参りませんでした、ね。そういう働きを頂いておる、そういう祈りの中にあるものがですよ、今日私が申します、どうしておかげが受けられんのであろうか、ということなんです、ね。近所からでも親戚からでも、言うなら氏子の自分の家内からでも、主人からでも子供からでも、信用されていないほどのあなた達だから、私たちだからおかげの頂けん筈だということ。
 これは私も含めてなのです、ね。けれども皆さんは皆さんの立場として、お考えになってですたい、これだけのところに、ご縁を頂きながらおかげを受けられんのはです、ね、二重人格であり三重人格であるような、ではないのですけれども、私はこの人がどうしておかげを受けられんじゃろうかと、これだけ熱心でもあり、あれだけにこやかにして、いつも私に接する時なんかはです、どうしてこの人は、おかげ頂かれんだろうかと思う人がいくらもあると。
 ところがさあ隣の人から話を聞いてみたら、子供から聞いてみたら、家のお父さんは椛目ではあげんしておるとばってん、家じゃこげんですよちゅって、肝心要の息子が言うんですもん、これではお父さんに、その子供も付いて行くはずがないのですもん、ね。ですからその、その人が二重人格じゃあるな、椛目ではやはり信心の雰囲気の中にあってです、御理解を頂いてです、ね、先生の前では一生懸命の精進がなされてです、あのにこやかさとか態度とか雰囲気とかがあるのであり、生まれてくるのであると。
 だからこれをこのままです、自分の家庭に職場に、自分の隣近所の人達の周りにおいても、私の前に出ておる時の様な、言わば信心に皆さんがなられる時です、私は「何事にも真心になれよ」と同時にどこででも真心になられた姿であるとこう思う。神様からもよい氏子として、教会の先生からよい信者として、子供からよいお父さんとして、よいお母さんとして隣近所からは、成程信心しなさる一家だから、違うと言われる様な私は社会人として、ね。おかげが頂いていかなければ、私はおかげを頂かれまいと言う事を。
 改めて感じるのでございます、ね。ましてや信心のある者同士からです、先生の前と実際はあの人あげん違うですよと、陰口を私は聞かなければならない様な事ではです、おかげの受けられる筈がないて。もう今日は私自身もです、私自身もそこん所に本気で取り組みたいと思う。皆さんもですははぁこげん所がおかげの受けられんとじゃろうと、もう本当に「何事にも真心になる」と同時にどのような場合でも真心にならせて頂くことに焦点を置いて精進なさったらどうでしょうか。
 こういう只今申します様なです、椛目のお広前に特別の働きがあっておるのでございますから、働きの中にあってです、ね、おかげを頂かして貰い、神様に御すがりするより他にはない、私が改まるより他にはないと、これが直結したものであるという、昨日の御理解でしたがです、ね、その改まるより他にないというならば、私の言うならば、陰と日向お広前と自分の家でと、というそこの所の開きをです、いよいよ一つにしていかなければ、そこに焦点を置いて改まっていかなければならんと言う風に思うんですね。
   どうぞ。